とかく侮られる「後北条氏」は本当は立派な武家だった。 ー 伊東潤・板嶋恒明「北条氏康 」

2019年10月12日土曜日

伊東潤

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 戦国時代の幕開けをつくったといわれる北条早雲を創始者とする、いわゆる後北条氏は、五代にわたり、おおよそ百年近くも関東で雄をなし、最大時には二百八十万石もの大大名であった割には、最後が秀吉に降伏したという終わり方をしているせいか、ドラマや小説ではあまり評判がよくない。


では、その領国経営がいいかげんな領主だったのか、といえばけしてそんなことはなく、むしろ武田信玄や上杉謙信よりも、領民を保護した安定した政治を行っていた領主であったらしく、世間の評判と実際とが、こんなにかけ離れている戦国大名も珍しいだろう。


本書はそんな後北条氏の、特に一番の隆盛を築いた「北条氏康」をメインにすえて、後北条氏の創設から、小田原合戦で秀吉の降伏するまでを、戦国時代の敗者を描かせたら右に出る者のいない歴史小説家・伊東潤氏と歴史ライターの板嶋恒明氏と共著で現したのが本書『伊東潤・板嶋恒明「北条氏康  関東に王道楽土を築いた男」(PHP新書)』である。


【構成と注目ポイント】


構成は


第一章 宗瑞と氏綱

第二章 若獅子登場

第三章 三代目当主氏康

第四章 覇者への道

第五章 関東の覇権

第六章 氏康最後の戦い

第七章 滅亡への道


となっていて、第一章が後北条氏の草創期の初代「早雲」・二代目「氏綱」、第二章から第六章までが三代目で、後北条氏の版図を最大にした「氏康」、第六章の後半から第七章が四代目「氏政」・五代目「氏直について記述されている。


まず、おさえておくべきは、この北条氏康は、

 今川義元が四歳下、

 武田信玄の六歳下、

 上杉謙信が一五歳下、

 織田信長が一九歳下、

 豊臣秀吉が二二歳下

 徳川家康が二七歳下

 という年齢的な位置にあり、戦国時代が収斂し、天下統一に向かう一つ前の世代に属していること。これは、未だ世の中がどう転んでいくかわからない戦乱の最中であった時に、相模・伊豆・武蔵・下総・上野の全部と下野・上総・常陸・駿河の一部を領する大大名で(武田信玄は甲斐・信濃の二国・約六三万石。後北条氏の領地が最大だった時は二八〇万石くらいあったので、ほぼ五倍の大きさ)、彼が生きた時代が天下一統へ向かう、もう少し後であったなら、あるいは後北条幕府ができてたのかもね、と妄想も膨らむのである。

ただ残念なことに、後北条氏のポリシーを武田信玄や上杉謙信と比較すると、関東独立国の形成、内政の充実が優先事項でであった、と本書にあるので、まさしく京都へ攻め入るなんてことは妄想どまりなんでありますが・・・。

この辺は、名将といわれる武田信玄と北条氏康を比較した 先行型の武田氏と、領国統治に重きを置く北条氏の特徴の違いが明確に出ていて興味深く

信玄という男はクールな現実主義者の反面、諏訪信仰や不動明王信仰などに深く帰依することによつて自らを神格化し、その神秘性によつて主従関係や支配関係を強固にしていった。

 そこが人格的かつ法的主従・支配関係により、国衆や民との間に信頼を築いてきた北条氏と大きく異なる点である。

 だが神は世襲できない。

 それゆえ信玄の作った操縦席(コックピット)は信玄でしか操縦できず、信玄の死後、その座を継いだ勝頼は外敵よりも内部の統制に力を割かれることになる。

 こうした宗教的主従・支配関係が、武田家減亡の一因となるのは論を侯たないだろう。

 その一方、人格的かつ法的主従・支配関係は世襲しやすいものなので、北条氏の減亡の要因を内部崩壊に求めることはできない。

 いずれにせよ企業ビジョンとも言える部分で、同じ東国の戦国大名とはいえ、領土的野心先行型の武田氏と、領国統治に重きを置く北条氏の特徴の違いが明確に出ていて興味深い


といった記述は、今でも信玄を「神格化」してもてはやす人が多い中、北条氏康がTVドラマ化されない理由がわかるような気がしますね。


このほか


領地を増やすことは財源の確保につながり、それと比例して自らの地位の安泰につながる。

 (略)

 大名も同様な考え方から領地を拡張するわけだが、武田氏の場合、もつと切実な理由があった。

 甲斐国は富士山の火山灰の影響で物成が悪く、飢饉が起こると餓死者が出やすく、それによつて田畑は荒れ、さらに生産性が低くなるという悪循環の繰り返しだつた。

 信玄は内政面では治水に力を入れ、耕地面積を広げて農業生産性を上げることに努め、その一方で版図を拡大することで他国の富を収奪し、甲斐国特有の問題を解決しようとした。



獲得した占領地を自らのものとしない「義将」の輝虎はどうだろう。

 戦国時代における食糧生産性は極めて低く、慢性的な食糧不足状態にあった。

 こうした環境下では、餓死者が出るのは当然で、それは季節別でみると、早春から初夏にかけて極端に増加する(『日本中世村落形成史の研究』田村憲美著 校倉書房)。

 つまり、農作物が収穫されない早春から初夏の端境期には、食糧の備蓄が底をつき、餓死までは行かないまでも、栄養不足に起因する疾患で多くの死者や病者が出ていた。

 とくに上杉氏の支配する越後国は、寒気が厳しく二毛作に適さない地域であり、食糧不足は深刻だつた。

 となれば「口減らし」をするしかない。

 たまたま時代は戦国であり、軍勢の中でも足軽・小者・中間と呼ばれる雑兵や黒鍬(土木兵)は、農家から動員された農民の次・三男が中心だった。

 彼らが端境期に村からいなくなれば、大量の「口減らし」ができると同時に、侵攻した土地の利々から食料や財物を略奪てきるという構図である


といったところは、信玄や謙信の戦争の意外な一面も垣間見えますね。


このほか、武田勝頼と上杉謙信の意外な共通点とか、有名な「小田原評定」の実際の姿とか、豊臣秀吉とは負けるとわかっていても北条氏は戦争せざるをえなかった、とか歴史のTipsも数々ありますので、詳細は原書で。もっとも、○○公方がどう、と正統な関東管領はどう、とかの耳慣れない役職や上杉なんたらや大田なんたらがいっぱいでてくるので、そこらはメモでもして頑張りましょう。


【レビュアーから一言】


四代目・氏政、五代目・氏直の時に、秀吉の「小田原征伐」で実質上、後北条氏は滅亡することになるのですが、その原因の一つは


氏政という人間は、父の氏康よりも家康に似ている。軍才では家康に及ばないものの、外交面では家康を上回る手腕を発揮し、交渉と調略を駆使して版図の拡大に成功している。

 このことからも、氏政は慎重で周到な人物だったと思われる。しかも家康以上に領国統治に力を注ぎ、在地国人や農民から収奪しようというのではなく、彼らとの共存共栄を目指したという点で、現代的価値観からも評価できる。

 (略)

 それではなぜ、氏政は北条氏を減亡に導いてしまったのか。

 その理由を強いて探せば、氏政は何事にも慎重で手堅くなりすぎるところがあり、ここ一番の果断さに欠けていたからではないだろうか。


ともされているのですが、当方的には、後北条氏が脈々と育て上げてきた「領国」が彼らの意識を縛り、内を守り、充実することを優先させたことが悪い方向にでたように思えます。天下統一に向かう大きな流れに逆らって家を存続させるには、例えば九州の「島津」のような「狂乱」の部分が足りなかったのかもしれませんね。


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日本の人口最少県の住人。なりわいは行政書士。読書好き、ガジェット好きの昭和人です。

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